こ ん に ち は

こんにちは は毎月追加されて現在既に306号です

これは黒崎昭二氏の はがき通信 を編集したものです

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日 曜 日 は 座 禅

曹源寺

岡山市丸山1069

tel :086-277-8226

山門

総門

天竜池

本堂

 


[日曜日は坐禅] Zazen on Sundayu.    

     目 次
      1、曹源寺日曜坐禅会
        2、曹源寺の歴史の一端
  3、参道を歩く
    4、禅寺の菩提樹
5、茶礼
  6、臘八接心
   7、静寂の深さ
   8、作法の変化
            9、外国からの修行者の方々

                 ☆曹源寺日曜坐禅会
 
 私が参加している日曜坐禅会を紹介します。井山宝福寺(岡山県総社市)とともに有名な曹源寺は私の家から徒歩十五分。二十〜三十人くい修行されている。
一)毎週七時四十五分までには本堂に集まり、八時の板木の合図を坐禅して待つ。静寂そのもの。線香の紫煙が漂う。四、五十名が参加。女性、子供、外国の人もいる。自動車で一時間近くの遠距離からの者、二十五年も坐禅されている常連など。直日が指導。
二)「白隠禅師白隠坐禅和讃」斉唱。前半約三十分坐禅。中休み。太極拳体操。後半約三十分坐禅。警策、打つもの受けるもの警策前後合掌礼拝。「四弘誓願」を三回斉唱。
三)原田老師法話。
四)小方丈で抹茶とお菓子の接待(茶礼)を受ける。清話。
  日曜日には欠かされたことがない。一九八九年の元旦は日曜日であったが大勢の人が参加していた。坐禅、法話、接待を通してこころの問題を、布施 のこころなどを学んでいる。
 1989.2.1

                ☆曹源寺の歴史の一端
 
 毎日曜日の坐禅会に参加させて頂いている曹源寺から日本の宗教の一端を思う。
 曹源寺は元禄十一年(一六九八年)、ちょうど三百年まえに池田綱政公が高祖父信輝と父光政のの菩提を弔い、自らの冥福を祈るために建立した。曹源寺は禅宗の臨済宗系である。
 現在地の岡山市円山は、当時開拓された新田地帯で、多くの人(農民が主)たちが集まった。それぞれの人の宗教が違うので曹源寺の周囲に日蓮宗の大光院、天台宗の天台寺、真言宗のお寺、神社が立てられた。現在は真言宗のお寺はない。神社は祠と思われるものが残っている。
 曹源寺は多くの高僧が修行されていた。『禅語百選』の著者:松原泰道師が倉敷に来講されたとき、たまたまその本を持参していたので、サインをお願いたしましたところ、「曹源一滴水 泰道」と書いて下さいました。
 由利滴水禅師の遺偈は「曹源一滴 七十余年 受用不尽 蓋地蓋天 咄 勉勉旃旃」。   
 由利滴水禅師は、一八四○年、儀山禅師は山曹源寺に掛搭。一八七一年、天龍寺の管長となられる。
 その他にも、現在、遺徳をたたえられている十八世伝衣老師は、その後、京都本山紫野大徳寺百八十八世管長となられている。 
天台宗の天台寺には境内に四本柱に銅板の屋根を葺いた一坪ほどの周囲にはなにもない建物の中に水子・子育地蔵菩薩の石像がまつられている。高さ七十センチくらい。両手を胸の高さまであげて、左の掌には赤ん坊を載せ右の掌には壷を載せ、右足元には子供が立つている。
 このお寺さんにお訪ねすると約二十年前ころ、子供の堕胎が行われていたころまつられたそうだ。
 いまでも、いろいろな理由で堕胎する人もいるだろう。また子供が欲しいが出来ないので、治療として体外受精により子供をさずかっている者もいる。
 やむを得ず水子にした人たちは水子地蔵菩薩におまいりしていることだろう。赤ん坊を授かった人は子育地蔵菩薩にお礼参りしていることだろう。
 庶民の赤子の菩提を弔うきもちは殿様の祖先を弔う気持ちと同じだろうと。
1998.9.5

                   ☆参道を歩く
 
 家から十四分で参道に到達。自動車2台が楽にすれちがえるほどの道幅、両側に一〜三m間隔の松並木参道。私の歩く速さで約二分弱の道のり。参道に入ると総門、山門、本堂の黒屋根 が三層に見える。その上には五穀山の峰が背景にあり、さらに虚空が目に入る。参道がつきるところに堀が東西に流れている。石橋を渡り数歩あるくと総門。総門から5mあたりに放生池があり、石橋が架けられている。この橋を渡り山門(三門とも書かれる)をぬけて本堂の4〜5m前まで石畳が敷かれている。本堂の前を右に折れて庫裡の横を通り抜けると書院造の客殿がある。客殿の前に庭園が開けていて心字池がある。そこに咲くひつぐさ観察に出かけていた。
本日、山門に到着すると多くの修行者が黙々と本堂の前を横切り西にある坐禅堂に歩いていた。今日は修行者の参禅は行われていないだろう。何かのお寺の行事の日だろうと思いながら心字池に向かった。ところが参禅室ではドイツの女性修行者が老師と対座していた。
 二十四日から二十八日の五日間、一日の休みもない参禅の様子を遠くから見せていただき、修行の一端をうかがわせていただいた思いがした。
こんな思いからか、ふと、参道は二河白道(にがびゃくどう)であり、放生池の橋に立てば煩悩をできる限り断つて本堂に向かって歩き出さなければならないのではと思った。
 二河 熹駐は〈貪瞋二河の譬喩。おそろしい火の河・水の河にはさまれて幅のせまい一条の白道がある。火の河は衆生の瞋恚、水の河は衆生の貪欲、白道は浄土往生を願う清浄の信心で、いかに水・火におびやかされても白道を進めば西方浄土にいたり得ることを説いたもの。〉と書かれたもの思い出していた。
1998.8.25

                      ☆禅寺の菩提樹
 
 釈尊の生涯を読むと、三十五歳のとき、ガヤーの町の郊外に入り、そこに一本の大木を見つけた。インド名でアッサッタ樹のもとに結跏趺坐をした。
 「われは正覚を得るまで、この坐をたたず」
と決意したという。大いなる悟りに向かっての、それは最後の禅定であった。
それから十二月八日、釈尊は悟りを開かれたのである。
 釈尊がその大樹のもとで悟り(菩提)をひらかれたが故に、その木は菩提樹と呼ばれるにいたったのである。
 釈尊とゆかりのある菩提樹は、岡山市の曹源寺の小方丈の前庭に沙羅樹とともに植えられている。
 菩提樹はインド、ビルマなどの産であるクワ科の常緑高木。釈迦がこの樹下に座して正覚を成道したと伝え、神聖視される。インドボダイジュ。
 中国原産のシナノキ科の落葉高木もある。(『広辞苑 第五』)。
 「禅は、伝説では、インドに起こり、六世紀のはじめに菩提達磨(Bodhidharcma)によって完成した形で中国にもたらされたと考えられている。しかし、事実上の起源は中国にあり、中国禅宗の第六祖と称せられる慧能(六三八ー七一三)に始まる。ディヤーナ(dhyana、禅那、禅定)をのみ重んずる考えに対し、強くプラジュニャー(prajna、般若、智恵)の喚起を主張したのはかれ慧能であって、この事実が、それ以来禅として知られてきたものの起源をなすものである。」(鈴木大拙『禅』)。十一月の下旬、曹源寺の樹は黄葉、落葉してきた。中国原産のもののようである。インド、ビルマの産(日本では気候風土の関係から生育しないのだろうか)ではなくて。
 祖庭にこの樹を選び植えられた禅匠の気持ちが感じられました。
19998.11.11

                       ☆茶 礼 
 
 毎週欠かされたことのない日曜坐禅会で約1時間の坐禅が終わると、小方丈で末茶とお菓子が接待される。参加は自由である。小方丈には座布団がていねいに並べられており、気候のよいときは障子は開け放たれて庭が眺められるようにされている。冬の寒いときは灯油ストーブが焚かれて、その上には大きな薬缶がおかれて暖かい湯がたつている。お茶を頂く人たちは多少があるがほぼ四十名位か。その人たちが席についたころ、原田老師が出席される。一同、合掌あいさつさをする。女性の参加者がお茶をたてて、運んでくださる。その間、皿に盛られたお茶菓子がまわされる。
 一通り喫茶が終わると雑談が始まる。あるときは老師に質問をしたりする。例えば、坐禅の呼吸のしかただとか、禅宗についてとかなど。老師は初心な質問にも親切に、にこやかに説明される。
 お茶席に参加させていただくとき、いつも〈布施行〉を思う。
「山にこもったり、滝に打たれたりなど荒行ができず、肉食や妻帯をやめられない普通の平凡な人たちが、修行の代わりに自分の持っているお金や労力をい差し出すこと、つまり、お布施を出して行とする考えを布施行といいます。おもしろいのは、その場合、お金を出すほうがへりくだるべきだと考えられている点です。」 五木寛之『考えるヒント』より
 「ただ」の英語の表現は For Nothing である。「なにも求めない」と訳せるのか。布施行にこの英語がピッタリだと思える。
 仏教の言葉に〈無財の七施〉 がある。 七種の施しあり。財物を損しないで、大いに果報をえる。
一、眼施 二、和顔悦色施 三、言辞施 四、身施 五、心施 六、床座施 七、房舎施
 曹源寺のお茶席の接待はこの七施に当てはまるのでは。
 老師の眼施、和顔悦色施、言辞施、心施。お茶席を準備するお弟子さんたちの身施、 心施、床座施、房舎施。
 一服のお茶にこんな思いが込められている。

                       ☆臘八接心
 
 十二月一日から八日の夜明けまで禅寺では「臘八接心」といって特に坐禅に打ち込む修行をする。この接心は禅修行の大切な行事となっている。
 菩提樹の下で正身端坐されてさとりをひらかれたお釈迦さまをしのび、そのお姿と同じ姿になり、同じ心になるようにつとめるのが接心である。
 曹源寺(臨済宗)でも行われている。
 老師のお話しでは、今年は37名が参加者している。外国から何人かわざわざ参加している。そのなかに、ポーランドから12カ月の赤ん坊づれの夫婦がいた。ベルリン、ロンドン、大阪経由で来日して、約1週間の寒い季節の臘八接心に打ち込んでいる。ご主人のお母さんは熱心なカソリックの信者であるとのことでした。また、接心が終われば、観光などしないでさっさっさと米国に帰国してしまう人もいる。
 『正法眼蔵随聞記』の一節に次のようなことが書かれている。
〈亦ある人勧めて云く、仏法興隆のために関東に下向すべしと。
 答て云く、然らず。若し仏法に志しあらば、山川江海を渡りても来て学すべし。其の志ざし無らん人に往き向ふて勧むるとも、聞き入れんこと不定なり〉 
 永平寺から鎌倉まで、道元に赴くように勧めている。
 仏法に志しあらば外国からも来て学する人たちがいる。
 これまでの原田老師の日本において、また、外国にまで出かけられての指導が実を結んでいるのを目のまえにして、師との出合い、求道心の力の強さを感じさせられる。
1998.12.1

                     ☆静寂の深さ
 
 曹源寺で坐禅しているときは、家で独坐しているときより静寂を強く感じる。不思議でしかたない。私だけではないようだ。他の人も同じ様な感想を持たれている。だから日曜坐禅会に参加するのを欠かさないのかもしれない。
 家は昼でも静かである、干竿売りのスピーカーの売り声が聞こえる位のもので、夜はまして静寂そのものである。静けさではお寺とあまり変わらないと想えるの に。
 独座(夜座)のほうが、直日の方々と日曜坐禅者多数の方々の坐禅より静かであると想えるのだが。曹源寺では、本尊十三面観音像が祀ら、天井も高く広い本堂で坐禅をしている。家では寝室である。6畳の部屋に箪笥、机などがあり空間が狭い。
 坐禅開始時刻を知らせる木板をたたく音、柝を打つての坐禅をはじめる前に白隠坐禅和讃を唱和して、鉦での坐禅始めなどの手順による雰囲気による精神的な統一が静けさの中に引き込まれて、それを感じるのか?
参加者全員が静寂を守るように動作しているのも影響があるのか?
参加者一人一人の坐禅から発散される雰囲気が心に伝わってきているのだろうか? 
身心相即と同じく環境と心が相即であると思える。
1999.2.2

                   ☆作法の変化
 
 十数年前、駿河銀行の社員研修所を訪問したことがある。研修所の清掃はゆきとどいていて、その玄関に、石に刻み込まれた「三樹の教え」が置かれていた。当時の頭取は多分、岡野喜一郎氏であっただろう。
 『小島直記伝記文学全集 第十一巻』に岡野喜太郎氏についての一章に「孫の薫陶」があった。
 駿河銀行の岡野喜太郎頭取が五十四歳のとき、豪夫の長男、すなわち嫡孫(岡野喜一郎)が生まれた。喜一郎は、九歳のときから祖父喜太郎のもとに引き取られた。

 喜太郎は既に六十の坂を越えていたが、今なお駿河銀行頭取の地位にあり、ばりばりの現役であると同時に、岡野一族の厳然とした家父長、統率者なのである。野喜一郎は、わしが預かる」
といわれたとき、豪夫もみねも、その言葉に従う以外に道はなかった。 
祖父喜太郎は喜一郎を厳しくしつけた。
 例えば、「喜一郎、畳の縁を踏んではならぬといったではないか」
ふすまは立ったままで開けててはいかないのだ。必ず、片ひざをついて開けなければならない。目上の人に話す場合も、立ったままではいけないといわれていた。
 現在は一般の家の様式も変わり、和洋折衷になり、立ち居振る舞いも変わってきている。茶道などに伝統的な作法が伝えられているのだろう。絨毯で生活している時間が多いこともあり、「畳の縁は踏むな」など仕付けられることもほとんどないであろう。
 畳に座っている目上の人に話す場合も、立ったままで話すのも気にならないようである。
 しかし、曹源寺では、坐っていらる老師に話しかける修行者は必ず坐って行っている。 
1998.11.14

☆外国からの修行者 の方々

一、得度式

 アメリカ青年の得度式が行われた。来日前、小児麻痺の兄さんが家族の手厚い看護も空しく亡くなられた。社会に何ひとつ貢献出来なかった兄の思いを含めて社会に役立ちたいと思った。二年半、曹源寺で修行。日本での僧侶の生活やしきたりを見ていると、出家へ踏み切ることが出来なかった。
「ただ修行しておればよい、そうすれば周りの人は感化を受けるものだ」
との老師の指導で、一生涯を仏道へと決意した。僧侶としての修行、漢字仏典を読む本格的な勉強、十年は修行しなさいと言われている。
 ここでは、世界各国からの人が修行している。彼等が帰国するとき、老師は「只修行して、黙っていなさい。達磨大師は、九年間も面壁していました。大法を伝えるに足りる人 物をひたすら待っていられたのである」と訓されている。
 この青年に感心させられた。異国で厳しい修行に励むばかりでなく、日本語・漢字・仏典の研究は大変なことであろう。見落としてはならないのは老師の「化して教える力」の素晴しさである。外人修行者をここまで踏み切らせ、そのうえ、十年間の指導を。
 「梅 寒苦をへて 清香を放つ」 彼の得度名は「道裕」さん。
1991.2.1

二、失 明 

「いら立つな腹を立てるな目のみえぬお前に何ができるというのだ」。「風花雪月を詠じて楽しむ風雅な心は今の私には無い。また、いわゆる写生の歌にも興味はない。私はただ、このどうにもやり場のない切ない気持ちを、何等かの形で吐き出したいのである」。 目加田誠さんは十数年来、入院を繰り返した末、いよいよ人の顔も見えなくなった。今年 八十九歳。
  八月、曹源寺での日曜坐禅の直日が交替した。その一人はアメリカ女性正念さん、目が不自由。渡り廊下を歩いて、三段の階段をのぼり、本堂に入る。左手に曲がり三間ほど歩く。柱に触り、右に向きを変えて同じ距離だけを歩いたところで、もう一度柱を手にして仏壇の方に向き、一歩踏み出したところが彼女の坐る場所だった。若くして過酷にも光を失い、米国で禅宗を知り、わざわざ単身来日、臨済宗のお寺での坐禅・作務・雑巾かけなど修行に励んでいる。
 悩み→諦め→受容を通って修行している様子を見せていただくだけで、ただただ頭が下がる。同時に、この人がここにとどまり、仏道に精進している状況のなかに、老師をはじめ多くの同行(外国の人が沢山いる)の慈愛を想う。
1993.10.1

                 三、TONY'S VOICE DOUKEN

 Tony was dying from AIDS. He was 30 year old. Tony was a student of Buddhism. He wanted to talk to a Buddhist Priest.
The hospice asked if I would talk with him. I was not trained as a Buddhist Priest. But as a Shugyosha, I agreed to talk to Tony. But I was nervous. What would I say?
I dressed in my best samuyi and white tabi. Tony's mother met me at the door of the house. She was very happy to see me. She showed me the way to Tony's room. I stood at the door way and wondered “What should I do?"
Against the wall of Tony's bedroom was a Buddhist Butsudan. As soon as I saw the Butsudan, I remembered another Butsudan I saw several months earlier. I was traveling with the Roshi2in Seattle3. We visited a Buddhist Nun's home. Immediately upon entering the home, the Roshi walked straight to the Butsudan and began to chant a Sutra. I was very impressed by the Roshi's action. When I saw Tony's Butsudan I knew what to do.
I stepped into the room and sat in front of the Butsudan. I lit a stick of incense. And rang a small bell 3 times. Then I began to chant the Heart Sutra(Hannya Shingyo). 4 After I finished the Sutra, I turned to look at Tony. His face was bright and smiling . We had a good visit together. Tony died several weeks later.
Tony's mother called me and asked if I could visit with her. When I arrived at home she had Tony's Bell sitting on a table. She said the bell was a gift for me. I explained that usually I never accept gifts from families I help, but this time I made a exception. I explained to Tony's mother that the bell should be used to chant Sutras. I said I would use it every day. I told Tony's mother that the bell was the sound of Tony's voice. Tony's voice would be heard every day through the sound of the Bell. This story happened 2 years ago. Tony's voice is still heard every morning.
1999.1.3
DOUKEN(道顕)さん:米国人。今年、原田正道老師のもとで修行して今年得度された。

写真の提供

成田 勝彦様

E-MAIL: k_narita@tamano.or.jp



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