随     筆

   足への落想  

            医家芸術11月号掲載  村山 正則 

   「手が文化を象徴するなら、足は文明を象徴する。」――といはれるが、その言葉が 

うなずけるような足の様相を日常の外来でよく見受けるこの頃である。

老若男女を問はず足を観察していると、とかく目につくのが扁平足、外反拇趾、

陥入爪、鶏眼、胼胝(へいてい)腫(しゅ)第五趾の変形、、、、、の何と多いことか。

裸足や下駄ばきの減少、運動不足など、生活環境の変化が原因であろう。

人間の文明は歩くことから始まったとするなら、足の 形態、強さは文明と密接な

関係があるといえよう。

  歩く、、、と言えば、遠足という言葉もなつかしいが、最近では足で歩くという本来の

 意味では使はれていないのじゃないか。裸足、、、、といえば、足の外傷の児童を

 連れて来院する学校の先生や父兄の言うのに、「運動場で素足で遊んでいて、、、」

という言葉 をよく耳にする。それを言うなら素足ではなく裸足ではないのか。

 履物なしで裸の足で地面で行動するのが「裸足(はだし)」で、素足とは、履物を裸の足に

 履く場合とか、靴下、足袋をつけないで室内にいる状態―――を言うじゃないのか。

 戦前の躾を受けてきた古い人間と言われる私たちは、そう教えられて来たように記憶し

 ている。日本語の乱れの進む今日、「裸足」と『素足』の区別はなくなったのであろうか。 

 

ところで、手足の爪の色とか、形、硬さは健康の度合いを示すものの一つと言われる

 が、殊に足の第五趾の爪を見ると、その人がどんな履物をはいて生活してきたか、永年

 に亘ってどの程度しめつけられてきたかが如実に語られている。最近はすでに原型を止

 めない米粒大の遺物状態から、爪がすっかり消失しているのも少なくない。二十一世紀の

 人間の足は、殊に第五趾の爪は退化消失してしまうのじゃないかーーという思いである。

 

  日本人が靴を履くようになって百年になるというが、今や世は完全に洋式化され、足

 に見られるすべての障害、疾病は従来の履物文化から靴に影響されつつあるのは間違

 いないであろう。そう言えば、かっての下駄、草履の文化はなやかなりし時代の名残と

 して、第一趾と第二趾の付け根の間に鼻緒をはさんだ隙間が、誰の足にもよく見られた

 ものだが、昨今は余り見受けられないのも履物文化変遷の一つであろうか。

 考えてみれば、人間は一日平均六、五キロメートルを歩くと言われる。歩数にして約七千

 五百歩。生涯に歩く距離は十九万キロメートルというから、人間らしい生活を営むことの

 出来るのは足のお蔭とも言える。にも拘らず、大切な器官でありながら日常慣用語と

なると、手よりもどちらかと言えば悪い意味の言葉が多いのはどういうことか。曰く、

足が出る、足もとを見る、足切り、足を洗う、浮き足だつ、逃げ足、足げにする、、、。

      レオナルド・ダ・ビィンチは人間の足を「人間工学上の最大傑作であり、最高の芸術である」 

   と喝破しているが、なるほど解剖学的には、両足の骨の数は五十二、これは二百八個もある

  躯幹全体の四分の一を占める数であり、それに六十四の筋肉、七十六の関節、靭帯がくっ

ついていて、夫々が相互にからみ合って人間の足を一つの芸術品にしていると言える。

私たちは折角の傑作品を履物で台無しにしているーーーといえるではないか。

 とかく人間は手への思いやりは念入りだが、足への愛情に欠けているところがある。

清潔さもさることながら、履物、殊に芸術品を保護する靴に私たちはもっと考慮すべき

であろう。親しい靴屋さんに聞いたことだが、足に好い靴とは、人間は健康でいる時は、

自分の内臓、臓器の存在を意識しないと同様に、靴を履いていることを全く意識しない

ような履物が理想であるーーと。けだし当然のことであるが、当然のことが出来ないと

ころに、人間の大きな悩みがあるのかも知れない。

履物もさることながら、今日、この国では裸足、素足の感触が失われつつある。

道を歩く下駄の音が聞かれなくなった昨今、固い靴をはきつづけて素足の時代には見

られなかった足の形態の変化をみるにつけ、少なくとも第五趾の存在を意識した足へ

の愛情を忘れないでやりたいものである。 

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